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だいぶ前だけど映画館で観たですよ。がらっがらの映画館で。
私的にはかなり、身につまされるというか、そんな映画で、いい映画でしたよ。
夫婦愛が強調されてるようですが、主題はそんなんじゃありませんでした。
多少「芸術」を齧った人であれば、ああ、そうそう、と。
少なからず若かりし頃の自分を振り返ってみたくなる映画ではないでしょうか。
あらすじ等は各種サイトでご確認下さいまし。
以下、ネタバレしつつ感想(というか覚え書き・・・)。
主人公=真知寿(まちす)の場合、作品はことごとくたいしたことなくて、それは本人も強く自覚している。だから色んなことにチャレンジする。悪徳画商に言われるがまま作風を変えたり、なんやかや翻弄されまくる。
でも真知寿はもう作品を作る過程、生き方そのものがアートになっちゃってるタイプの芸術家なんだな。で、本人にはその自覚はないわけ。それはおそらく子どものころの記憶に縛られているからなんだけど。きっとパフォーマンス・アートとか、インスタなんかでこそ才能が発揮されるタイプの人なんだろうなあと思う。だけど真知寿は絵で勝負したくて、あんまりしゃべるタイプでもないし。アクション・ペインティングとかそっちの方にも手を出すけど、自分でもここは俺の居場所じゃないと思ってるし、友人の死というかたちでそこから身を引くことになる。
作風が定まらないっていうのは、迷いがあるってことで、自分の作品に対してもそうだし、やっていること・生き方そのものに対してもそう。
真知寿本人もなんで描いてるかよくわかってない、というか、ただ好きだから、描きたいから描いてるってだけでずんずん突き進んでいく。でもなんだかもやーんとしたまま。でも進む。
それが娘の死によって暴発する。
神懸かり的というか、鬼気迫るというか、まさに何か降りてきて描かせてるというにふさわしい姿が、「芸術は爆発だ」という名言がありますが、まさに爆発した瞬間。
なのに、そのせいで、唯一の理解者であった奥さんまで失うことになる。自らの創作活動の中でマスターピースと呼べる作品が、人生で遭遇した破滅や死といったキーポイントとも重なってくる。
多分真知寿は、子供の時に誉められて以降、他人に評価される作品を目指してずっと作ってきたんじゃないかと。で、周りからも評価されないし、自分でもいまいち突き抜けたかんじがない。だけど、娘の死に顔を見て発作的に作りたい、作らなきゃと思った。描くべきものが、為すべきことが見つかった、いよいよ迷いから脱した、という。これまでにない、ものすごい手応えを感じたんじゃないかと思う、このとき。
娘の死以降、自身の命をかけた作品の制作までを通して、真知寿の芸術、もしくは芸術というものに対する真知寿の答えというものが完成するんだよな。第一部完結、というかんじ。この最後の2作だけは完成作品を見せないままだったんじゃないかと思いますけど、まあそうだろうな。それは、人のための作品ではないから。自分が描くべきものを、自分の為すべきことを、ぶつけた作品だから。
しかし、そのことによって真知寿の人生(芸術)は破綻した。つまり真知寿はまだまだ亀を追い続けなきゃいけない。で、奥さんとまた第二部が始まるってところで映画は終わるというね。新たな人生じゃなくって続きをね。二人で、見えなくなるまで歩いてくんですよ。あの終わり方いいね。そうか、真知寿が亀で奥さんがアキレスという見方もできるなあ。
自分がどれだけ価値を認めていても、他人からしたら本当にくだらなくどうでもいいことなんですよね。っていうのを、人から見れば他人の人生なんてしょせん滑稽なもの、ギャグでしかないってくらいに拡大して描いてるのかな、と思います。真剣であればあるほど笑えてくるってのもあるし。
でも、笑えてるってことはさあ(バカにしてるんじゃなくてね)、その裏っかわにある「哀愁」みたいなものを感じ取れてるってことなんだよねって思います。なんだか分からない情熱。を燃やし続けられる人。それを支え続けられる人。簡単に言えば真知寿は「底辺」とか「負け組」の人間なのかも知れないけど、それを見つめる監督の視線には愛があるよな。そのかんじを共有できないと、この映画、あまり楽しめないのかなあ。逆にそこをぱきっと描かないからこそ成立する映画なんだと思うけど。
バカにするのは非常に簡単なことなんだけれども、くだらないとか、役に立たないとか、でも続けられるってだけでもすごいことよ。この映画では「芸術」っていうなんだか偉大そうなものがその情熱の矛先になっていますが、例えば毎朝ラジオ体操を続けて30年とか、勤続20年とかいうのと、きっとそう変わらないことになってるわけですよね、真知寿にとっての芸術とは。それが生活だからっていうさ。
こういう、しゃべりすぎない、声高でない作品っていいな。
それこそ声高にお勧めはしませんが、ぴんときた人は観てみるとよいかも。です。
私ももう一回見直そうっと。
『アキレスと亀』オフィシャル・サイト
http://www.office-kitano.co.jp/akiresu/
北野武&樋口可南子インタビュー
http://www.cinematoday.jp/page/A0001902
↑おお、ワタシの感想、割といい線かも。
ちょっと話はそれますが、その昔なにかで石野卓球が「時々似顔絵を送ってくるファンがいて、あれってつまり絵を描いてる=オナニーしてるってことでしょ、キモい」というようなことを言っていたのがとても印象に残ってます。あー外の人からはそう見えるんだなあと。まあ自己満足っていう意味でいえばおそらくオナニーであってるんでしょうかねー?そこまでの絶頂感?陶酔感?的なものがあるかどうかはわかりませんが。
学生時代に石膏デッサン(武装する女神)をしていて、「あーこの顔、奇麗だわー好きだわー」と思いながら描いていたら、いつもとまったく違うタッチで描けたりしたことはありましたね。だからって気持ちいいってことはなかったけど。おう、描けたな、くらいのもんで。
まだまだ、もっともっとやれるな、と描きながら常に思うし、大抵は妥協点が完成ってかんじですからね、絵の場合(まさしく「アキレスと亀」状態で、いつまでたっても追いつけない)。
そう考えると、描いてる・作ってる最中はいたって冷静ですかね、集中してるし、頭使ってるし。作りながら興奮とか、ないなあ。無心で描く、という言い方をすることがあるけど、あれは無心なんじゃなくてものすごく集中してるってことだと思うんですよね。集中して勉強してるというのと同じで、頭は働かせてるわけです。なので、そこから興奮状態に持って行くっていうのはかなり難易度の高い技のような気がします。私には伺い知れない境地っていうのがあるのかも知れませんが。
他人の作品を観て興奮することはままありますけどね。
でもまあ、だったらミュージシャンも同じだろと、当時も思いましたけどねー。っていうか音楽の方がよっぽどオナニーっぽいなあと、ライブを観る度に思います。特にロックとか。ロックのギターとか。音楽の方がより身体的だし、先史の時代からシャーマンには音楽がつきものじゃないですか。トランスするには音楽ですよ。絵は頭で一旦咀嚼しないといけませんからね。
まあいずれにしても、他人からみたらそれくらい気持ちの悪い行為に映ってるかも知れないってことですよね、何事かにのめり込んでる姿ってのは。ジャンルによって気持ち悪さの度合いに差はあるのかもしれませんが、理解を超えるものは排除したいですからね、自分に害が及ぶ前に。もし真知寿がお隣さんだったらやっぱりちょっと身構えるもんなあ(笑)。