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お前ら、そんな曲作りしてなかっただろうよ!

オリンピックのために久しぶりにTVを長時間見てて、
とんでもないぜお前ら!と思ったこと。

番組、CM等で使われている曲のほとんどすべてが
「中田ヤスタカ」ノリのデジタル・ポップという・・・。
お前ら、そんなじゃなかったじゃん!

中田ヤスタカが悪いってことじゃないですよ。
Perfumeとか嫌いじゃないですし。いや、むしろ好きだしPerfume!
そうではなくて、そのおしゃれげブームに安易に乗っかる作り手って何なの?って話です。

小室哲哉ブームにぶーたれてたお前ら、一体どこ行った!?
やってることかわんねーし!?
(語気が荒いのは怒りの表現ですよ!)

っていうか、まだ流行ってない日本市場へ洋楽的な要素だとかブームだとかを持ってきて流行らせようとしたってことを考えれば、小室哲哉には少なくとも啓蒙的側面、音楽そのものやそれを聴く人への作り手としての「良心」というようなものがあったわけです。楽曲作りの手法や楽曲そのものに対する批判はいろいろとあるのだと思うけど(その辺は詳しくないので私に言えることは何もないのがアレですが)、少なくとも、このブームを、この日本で、自ら起こそう、というメンタリティ。それがあったというのは間違いない。
それと比べて今のは、日本では今これが売れるっぽいから乗っかとこうってだけじゃないっすか。そこにポリシーはないだろう。小室ブーム〜批判時代を経ての今だけに、なおタチが悪い!

こういうのは日本だけじゃなくて、全世界(というか主にアメリカだけども)的な流れです。いまだにオートチューンとかやってる曲を聴くとなんだかもう、どうしょうもなくお茶を濁したなー勝負する気ないなー感があって、どんなに曲やリリックが良くても、いや良ければなおさら、「この馬鹿が!」と思ってしまいます。「ねー、今風な感じでしょー?」みたいなさー・・・。もうね、「いっぺん死ぬがいい!」って思う。

逆に言えば、音楽界全体が迷走してるってことも言える訳ですが・・・。

ここ最近で最も憤りを覚えたのはTimbalandの『Shock Value II』です(全然HipHopじゃねえし!あいつ捨てやがった!っていう個人的な心証も多分にありますが・・・)。この人は元々デジタルよりの音作りなんだけど、いやーそれにしても前作の『Shock Value』があの人独特のMisc感が出てる非常によいアルバムだっただけに、かなーり期待してたんだけども何アレ!?なんつーの?無難?お前はそういう男ではなかっただろう?!・・・ってどんな人か全く知りませんけど(笑)。もうガッカリを通り越して怒れてきちゃいましてね(とは言えジャンルはPopで出してるし、そっち系が好きで、Timbaさんの過去の楽曲をあまり知らなくて、という人には悪くないアルバムだと思います、ということは付け加えておきますよ)。とにかくね、あそこはデジタル系のレパートリーが弱いんで、そこ強化してこうぜみたいな、そういうのばっかりが鼻についちゃってもう・・・クサッ!

なんていうか、あれですね、もう、作り手じゃなくて「売り手」としての戦略臭がきつすぎる。ぷんっぷんな訳です。
作り手って2パターンあると思うんですよ。常に新しいことを模索しチャレンジしていくタイプと、その人の持っているもの(パーソナルな部分とかも含め)を切り出して形にしていくタイプと。
前者はもちろん能力だったり単純に方向性の違いってのもあるんで、そうはなれない、ならない人ってのも多いと思いますが、作りたいものと売れるもののベストな割合ってのを見いだしていこうというタイプ(Timbalandは本来こっちの人なんだけれども、今回は失敗してると私は思う)。
それから後者は、言い換えれば地味とか、ベタとか、ワンパターンとかいう批判の的ともなってしまうこともあるけれど、マンネリや王道の良さってのは誰もが認めるところだし、もちろん音楽界の大きなムーブメントとは別のところで、その人自身は進化してってるわけで、でなきゃ続きませんからね。
で、そのどちらでもないのが、おしゃれげブーム乗っかり組。つまり作ってねーし、自分を削ってすらねーし!っていう。
だからもうアーティストとか、呼んじゃいけないです。そういうのは。「の」でいいよ、「の」で。


売り手としての立場を考えれば、もちろん売れなきゃ次が出せないんで、そのための戦略ってのはあって当たり前です。まず売れ、話はそれからだ、っていうのはよく分かります。ただ音楽界全体を正常な環境にしてそれを保っていくためには、売れ線狙いの小手先のギミックだけで作り手の意図やリスナーの耳や、そういういろんなものをごまかしていくのはいい加減やめないといけないんじゃないかって思います。結局は乗り捨て、使い捨てとしか見えない。重要であるかもしれないそのムーブメントも、ミュージシャンその人の人生も、業界全体も、音楽そのものをも。リスペクトする気持ちがあるなんてこれっぽっちも思えない。音楽っていう形のないものを売ってるんだけど、これって端的にいえば「人」が商品なわけじゃないですか。「人」を軽視して伝わるものって、残るものって何かあるんですか?と訊きたい。襟首つかんで問いただしたい。

規模がどんどん縮小してってる(データ的には配信の売り上げによってまた復調気味とも?)と言われる今だからこそ、そういうのじゃない楽曲、ミュージシャンを支え、プッシュしていかないといけないんじゃないでしょうか。良心を持って。売れたお金で売れるかどうか分かんないものの育成をしなきゃいけないんでしょうがないといえばしょうがないけど、だとしてもね、ブーム乗っかり組にははなから次の戦略なんてない訳じゃないっすか、新しいブームに乗っかるっていう以外にはさ。いい加減そこから抜け出せよ。
売れないのはそういうのが丸分かりだからだよ!魂がないせいだよ!であまつさえ曲もリリックも良くないせいだよ!はっきりいって!


音楽って、いやでも強制的に聴かされちゃう部分があるわけじゃないですか、TVやCMにしても、コンビニとかでかかっているのにしても。だから、いい・悪いとは別に流れ込んできちゃう。で、もちろんそこを分かって(というかそこ狙いで)やってると。だから余計悪質だと思うんですよ、ああいう「の」は。


というわけで、自戒の意味を込めて「K.U.F.U.」!


———-
余談:

ミュージシャンによるハイチ支援に関して、We Are The World組と、Hope for Haiti Now組とに分かれた話で、こんな記事がありました。

notrax – 「ウィー・アー・ザ・ワールド25」、あの人が不在のワケは?
http://notrax.jp/news/detail/0……08110.html

Jay-Zや、J・スムースさんっていうHipHop批評家の言ってることは確かに正しい、正論だと思います(J・スムースの意見はちょっと手厳しい感じはしますが)。

ただね、これは特にこのチャリティに限って言えば、アメリカ国内ならJay-Zの影響力は絶大なものがあるので問題ないんでしょうが、世界規模で見たときには正直Hope for Haiti Nowでは弱いんですよ。普段から洋楽や、もっと言えば音楽自体をあまり聴かない人へのリーチっていう点では、Jay-Z、Rihanna、U2ですら弱い。だから、ライオネル・リッチー、クインシー・ジョーンズ、ワイクリフ・ジョン、その他のWe Are The World参加アーティストなんてのはなおさらなわけで、個別でやったってまずムーブメントにはならないと思います(あ、ワイクリフは両方参加ですね。ハイチ出身なんですね。そうかー)。だからこの「チャリティ」という意味において、We Are The Worldに参加するってのは正しい選択だし、またマイケル追悼の流れで世界中のリスナーを巻き込もうというのも正しいやり方だと思います。

しかし楽曲としては
Hope for Haiti Now (Jay-Z、Rihanna、Bono from U2) の「Stranded」
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Shaggy、Sean Paulをはじめとするレゲエ組の「Rise Again」
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のクオリティの方が遥かに高く、これは確かにオリジナルの「We Are The World」を再発した方がよかったな、という気はします・・・オートチューン・・・。


あとカバー・ブームに対する批判とか。でもあれは、歌い継がれるべきジャパニーズ・スタンダードとでも言うべき名曲の数々を再認識させてくれた、そしてそれが一つのジャンルとして確立されたっていう意味ではむしろもっと評価されるべきだと思います。それに私個人としては、曲が作れないジャスト・ボーカリストの人達に対して、どんなにすばらしい歌を歌ってもスポットが当たらないという状況を非常に歯がゆく思ってるんで(特に男性ソロ)。
日本ではよっぽど歌がうまくない限りは普通にカバーしたって評価されることはありません。そりゃ元曲が良いんだから当然でしょという認識ベースに加え、オリジナルに対する各人の思い入れを凌駕(Monkey Majikとか)、もしくはせめてそれに比肩(徳永英明とか)するプラスαが求められる。日本人は特にその思い出保存傾向が強いような気がしますがそんなことないですかね?まあとにかく、はっきりいって日本ではカバーすることのリスクの方が大きいです、既に賞賛されている比較対象が明確にあるものなので。だから戦ってんですよねーむしろカバーってのは。予め存在する批判の中に身を投じることなので。
でもクラシックなんて全部カバーなのになあ。洋楽だってジャズだってカバー天国なのに、案外知らないだけだったりしますからね。
てことで徳さんバンザイ。


この辺りってやっぱり日本の音楽「業界」がよしとする楽曲の、ジャンルの狭さ(似たような曲ばっかり)ってところにもつながるんじゃないですかね?ほかの選択肢がない(ように見える)からうんざりと思う人は離れてく。けどそれは音楽に限らずよくなきゃ売れないのは当然です。でも、そもそもどんな曲だって何十ぺん、何百ぺん聴き倒せば、大抵は「すごく良い曲!」になってしまうものなので、そのへんが音楽業界のずるさ?みたいなものの構造かなと思います。「よさげ」「無難」で逃げ切れるという。ある種思考停止みたいな状況を生んでる、リスナーにとっても送り手にとっても。

こういうのって音楽以外のジャンルも含めて蔓延していて。特に顕著なのはTV番組や映画(中でもTV局主導のやつ)。二十世紀少年とかどうでもよくね?あれだけ宣伝してりゃみんな見に行くでしょうよそりゃ。しかもその一方では、韓流ブームの被害を被った韓国映画なんてのもあって、いつまでも一つの側面でしか見せないから、観たこともないのに韓国映画はすべて冬ソナ的波瀾万丈純愛物と決めつけ拒絶したくなるという土壌を作ってしまった。そこらの日本映画よりよっぽどクオリティ高いものが多いのに(波瀾万丈純愛物ですら!)。馬鹿な話です。
そもそもTVも映画も娯楽ですから、よっぽどの批評精神を持っていない限り、こうあるべき!もっとこの業界全体をよくしたい!なんて思って観る人は極めて少ないわけで、まあ無難ならよしというのが普通です。それを、視聴率や興行成績=作品への評価ということにミス・リードさせて、いかにも盛り上がってますよーってことにしてしまう。これは作品そのものとは別の、単なる煽り勝負です。で駄作が駄作を生む負のスパイラル。おかしいよどう考えたって。

だから、それに嫌気がさした人は離れていくし、損した!という怒りをぶつけなきゃ気が済まない人は、私のようにくだくだ綴ることで気持ちを表明しているわけです。ほんとは好きなんだよ!だーかーらー!と。
いい加減にしないと怒るよー!!


あんたたちがプッシュしていないものの方に、脱出のためのいろんなキーがスイッチが、わんさか転がってんじゃないの?なあんて思ったり。


・・・結局余談になってない。

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